先日Blogでご協力お願いします・・と申し上げました。
「理子ちゃんのひまわり」詳細を掲載します。
1DKの仮設住宅んの玄関の片隅に、手のひらにのるほどの小さな袋が置かれている。
中に入っているのは、ひまわりの種。独りで暮らす鈴木堅一さん(72)の宝物の一つだ。
今年も大輪をつけてくれるだろうかー。
激しい揺れの後、津波から街を守ろうと、海岸の水門を閉めに向かった。岩手県釜石の消防団員。
津波は目の前で水門を越え、高台に逃げのびた。歩いてたどり着いた自宅は、がれきに埋まっていた。
捜索隊が入ると妻信子さん(当時64)、長男(同44)、長男の妻奈津子(同45)、孫の理子さん(同11)
が2階の子供部屋で息絶えたいた。家族を守ろうとしたのか、健幸さんは両手を広げて抱えるような姿
だった。「ありがとう」。息苦しいなか、声をかけた。
1年後。小学校の卒業式で孫の卒業証書を受け取った。「鈴木さん、ひと言」と促された。卒業生54人
のうち犠牲になったのは孫だけ。「皆さんは生き残った教訓を伝えて・・・」。言葉が続かなかった。
「消防団じゃなければ、家族を亡くさないですんだかもしれない」。家族を自宅に残して水門に向かった
自分を責めた。周囲に「死にたい」と漏らした。ひまわりを植えたのは、そのころだった。
阪神ダオ震災で犠牲になった少女をしのび、ぜんこくの人が咲かせ続けているひまわり。前年夏の4人の
葬儀のとき、その話を紹介する絵本を地元旅館のおかみから渡され、数十粒の種をもらっていた。
4人の供養にと、がれきをとりのぞいて自宅跡に植えた種は、小さな芽を出した。壊れた側溝から水を
くんでまいた。その夏。家々の土台だけが残る地区の一画に、数十の花が咲いた。震災前、自宅には
アヤメやテッポウユリが咲き誇っていた。妻の趣味を手伝った事を思い出す。そばにベンチを置き、
1人眺めた。翌年は、数百の花が開いた。まだ灰色が広がる風景のなか、浮かび上がる黄色いひまわり。
足を止める人がいる。「孫は一人っ子で、ちょっとわがままだったけど・・・」。家族の思い出を話す
ようになった。昨年春、」その一人の埼玉県の女性から「種を譲って」と頼まれた。今年1月、その女性
から1冊のアルバムが届いた。「理子ちゃんひまわり」と名付けて全国の知人に種を配り、各地で咲いた
花の写真が25枚。「ひまわりに負けないくらいの笑顔で生きて行きましょう」
仮設住宅の玄関の壁には、自宅近くから見つかった理子さんのオレンジ色のランドセルが
つるされている。